「君はオバさんにならない」!? 見た目で恋した男の不幸
新たな幻想をつくり、暴走し続ける欲望
仏教が肉体を見つめる視線が、科学的、分析的であるのがお分かりいただけることでしょう。こうして、人間的な幻想を剥ぎとっていった先の世界は、私たちには味気なく思えるかもしれません。
が、私たちの心は基本的に次々に、新たな幻想をつくり、欲情し、走りつづけようとするもの。そうであります以上は、こうやって多少、幻想を剥ぎとって心を鎮めてみても、やがてまた別の幻想がうまれ、欲も生まれるのは目に見えているのですから、心配するのは及びません。幻想が増えるのは放っておいても増えるのですから、私たちが意図的に介入するとすれば、時として幻想を消去して心を休めることが有用なのだと申せましょう。
最後に、スバーが自分の肉体を、操り人形に例えた箇所を見てみましょう。「私は色々な、木製の新しい操り人形を、目にしました。紐や釘で結び合わされて、色々な形で踊らされる人形を。その人形が、人と釘を外されて捨て去られたとき、ボロボロに散乱させられた木片となったとき、断片でしかなくなったものに魅力を見つけることはできません。……このように、私の肉体も存在しているのですわ」
そう、もしも今は魅力的であったとしても、後になって必ずこの肉体は壊れて魅力を失うのであってみますと、肉体を拠り所にすると後で必ずや、幻滅を味わうはめになります。
肉体とはしょせん、後で分解して捨て去られる木片のようなものなのだよな
あ……とスバーから学びとることができるのです。
〈『いま、死んでもいいように』より抜粋〉
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